「玻璃の水璧」
誰もいない廃屋の中。一人の少女が部屋を訪れていた。
少女は、何か目的があるのだろうか、部屋にある物を少し持ち上げて、戻して……と動かしながら、小さな手で辺りを探っていた。
そのうち物を軽くひっくり返し始め、周囲を見渡した少女の目が、机の上に釘付けになる。
そこには、小さな本が置かれていた。奇妙なことに、顔を何度か背けてみるが、それでも視線はすぐに本に吸い込まれてしまう。少女は一旦無視しようとして頭を振るが、余程気になったのだろうか。散らかした荷物もそこそこに、彼女は本を手に取り、軽くページを捲り……ある1ページでその手を止めた。
――魔法世界。
現代理学の最高峰とも呼べる物理学を用いても、どうしても上手く表現されないことを、オカルティストが呼び始めた似非理論だ。いや、似非理論だった。ある狂学者の、一見すれば精神か何かが破綻していそうな論文が、彼の遺作たる未公表論文に記された無数の数式と共に世に公開され、アマチュア愛好家の手で物理学的に矛盾がないと証明されてしまったことで、学者界隈ではひっそりと魔法の研究が行われ始めている。
理論の詳細は後述するのでここでは概説に留めるが、これらの基礎となる魔法原理について、基本的な考え方をここでは紹介する。
物理学においては、物質は複数の力場(重力場、強い力場、弱い力場、電磁力場)の組み合わせによって量子という最小単位が速度を得、それが無数に重なり合って、ニュートン物理学的な巨視的世界が運動する。非常に乱暴な物言いだが、ざっくりと言ってしまえばそうなるだろう。
それに対して、魔法原理では、これらの量子を分割可能なものと考え、その本体を魔法場とでも呼ぶべき7つの力場にある魔法量子であると規定する。なお、この7つの力場は、提唱したオカルティストの名前をとってH力場、W力場、S力場、F力場、L力場、G力場、A力場と呼ばれる。これらの相互作用によって想定されるのが複雑かつ理路整然とした超多次元魔力場であり、それらの低エネルギー帯における運動が物理学的力場の性質を(現代物理学で説明ができないものまで含めて)非常によく近似しているのだ。
さて、7つの魔法力場において、物理的力場に特に強い影響を及ぼせるのがA力場だ。他の6力場は全て、式変形によって「A力場と強く相関することで物理的力場に影響を及ぼす」ということが証明されている。それに対し、非高エネルギー帯におけるA力場の挙動は、大統一場の候補とされるほどに物理学的力場をよく表している。
A力場は18次元の多次元力場で、魔法量子説を否定する際に槍玉に挙げられるほどに複雑な挙動を示す。また、A力場を2つの力場に分ける動きもあり、その場合は7次元のT力場と11次元のA力場に分割される。この場合、狭義のA力場は弦理論と関連付けて説明されることもあり、それに対してT力場は量子の波動的性質と関連付けられる。
対して、A力場を除く6力場は量子的性質を示さない。このことから、西洋における四大元素説になぞらえ、この6力場をエーテル力場と呼ぶこともある。
この200次元を超える複雑なエーテル力場がA力場の相関項に対して強い影響を及ぼすが、この相関項はエネルギー量の低下に対して指数関数的に激しく減少し、一定値を下回れば十分に0と見做せるまでに低下する。逆を言えば、高エネルギー帯においてはA力場独自の項は大きく減衰するため、エーテル力場が支配的な状態へと変化すると考えられている。
これらの事実から、我々が物理学的な力場で世界を論じるように、魔法的な力場で論じられる世界が想像されている。それがこの項の小題にもある「魔法世界」である。
魔法世界は更に複数に分類することができ、現代では泡構造を取ると想像されている低位魔法世界(七章)と、200を超える次元軸のあらゆる組み合わせが折り重なって混在する高位魔法世界(九章)の2つに分類して議論する者が大多数である。――――――
ここまで読んで、読んでいた少女がふらりと姿勢を崩した。常識を破壊するような記述、端々だけを理解することができる数式、膨大な厚さの本……それらが彼女の精神を激しくかき乱し、少女は頭を抱えてぐったりとうずくまってしまう。
しばらくそうしていた彼女の手から、厚さに耐えかねたのだろう、本がするりと滑り落ちる。本は少女にぶつかりながら、真ん中あたりのページでうつ伏せに床に転がった。ドサリ、と落下する音で少女がはっと目を醒ます。周囲を見回し、溜息をつきながら再び本を手に……
「ここにお客人とは珍しいですね。それも、そのページを開くようなヒトとは。運命とは奇異なものですね」
肩を飛び上がらせて、少女が驚いた。悲鳴とも呼吸ともとれない、ヒッ、という小音が静かな屋内に木霊する。
少女が恐る恐る見た先、さっきまで誰もいなかったはずの自分の後ろ。そこに女性が立っていた。女性は青い袴の巫女装束を身に着け、その白い襟からは艶のある真っ黒な体が覗く。しかし、その右手は袖の中に隠れ、袖口からは半ば透けた水色の刀が、自分の首のすぐ横まで伸びていた。無表情な顔は人形のように真っ白で、そこから伸びる浅い水色の髪が僅かな月光を反射する。そして、神妙な面持ちで、星空のような瞳が少女をまっすぐ捕えていた。
先程の精神の乱れもあるのだろうか。細く揺れる声が、少女の喉を震わせた。
「ひっ……ごめんなさい、ごめんなさい、やめて、違うの、謝るから、待って、」
そう繰り返す少女に、優しくも低い女声が語り掛けた。
「ああ、大丈夫ですよ。すぐに斬りはしませんから。」
「ところで、その本の今開かれているページ……非常に危険なものです。今すぐに手を離してくれませんか?」
「へ……」
そう言われて、少女は初めて、自分が指が白くなるほどの力で本を持っていることに気付いた。驚いて少女が手を離す。
しかし、勢いが良すぎたのだろう。本は仰向けになり、眩いほどに光る文字を月光の元に晒しだした。
「あー……」
そう言う彼女を振り向く間もなく、少女は首を動かせなくなる。金縛りに遭ったように動かず、ガタガタと震える目線の先で、文字が物理的に踊り出し、塊となって少女の顔へと……
――!
音もなく、水色の剣閃が少女の前を切り裂く。文字の塊は身を削がれ、壁に叩き付けられ、じたばたともがいている。
そして少女も、ゴム紐を切られたかのように激しく後ろに吹き飛ばされ、壁にぶつかる――と思われた矢先、すんでのところで澄んだクッションが少女を受け止める。一見すれば存在を疑うほどの、澄み切った透明な水の壁。それが、気を失った少女を受け止めていた。
少女が素早く水に包まれていくのを一瞥することなく、女性は水色の刃を再び構える。漸く動き出し、激怒したように明滅する文字の塊は、しかし壁から離れられずに暴れ続ける。文字と文字との隙間から、少女を覆ったものと酷似した清水の、しかし非常に鋭い銛が、蠢く文字を壁に縫い付けるのが僅かに覗いていた。
女性の刃が水を纏う。少女の壁となり、怪異の錨となった水。それを纏った刃はぐにゃりとその身を曲げ、次の瞬間。彼女の腕の一閃と共に、文字の塊を壁ごと斬り裂いた。激しく明滅し、空気を震わせ無音の咆哮を放つ怪異は、しかしその体を構成する文字を血潮のように吹き出し、そして――最後の一文字が力なく落ち、地面に着く前に霧のように消える。間もなく壁の刀創が閉じ、部屋は静寂に包まれた。
こぽり、こぽり、そんな音がした。
そんな気がして、少女は目を覚ます。気付けば、自分の周りを、柔らかで透明な液体が包んでいた。これは、水だろうか?下を見ると、気泡が水の界面とゆっくり行き来し、口元に大きな気泡を作っていた。
水泡の中で浮く少女が泳ごうとしたのに気付いたのか、揺らめく泡面の向こうで、先程の女性が近付いてきた。
先程の恐怖があったのだろうか。少しわたわたとした様子を見せたものの、ふと安心してほっと息を吐く。女性の手にもう刀はなく、先程見た赤黒い文字の塊も消えていることに気付いたのだろう。
女性が黒い手で水面に触れると、水が動き出す。少女は少し驚いた様子だったが、水泡は中を泳ぐ彼女の足を床に付け、そしてそのまま女性の袖の中へと消えていった。少女は震える膝を床に落とし、そのまま項垂れるようにへたり込んでしまう。
「大丈夫ですか?すみません、手荒な助け方をしてしまって」
息を荒げた様子もなく、女性が彼女に話しかける。少し肩で息をしていた様子の少女も、すぐに女性に答える。
「はい……何も、ないです。」
「あの、助けてくれて、その……ありがとうございます」
その言葉を聞いた女性が、少女の頭を優しく撫でる。
「なら、よかったです」
「あの本を手に、感情がぐちゃぐちゃで思いつめていた様子でしたので、すみません。もう本に憑かれているのかと思って、つい刃を向けてしまいました」
その言葉を聞いて、彼女はう、と押し黙る。その様子を見て、滑らかに正座して少女と目線を合わせた女性が小さく笑って続ける。
「本当を言うと、もう少し早く止めようかと迷っていたんです。アレは放置すると面倒な類でしたし、貴方が『見える』ことはわかっていましたから」
「……私は他人の心が少しわかってしまうのです。だから、その……貴方が、自分自身を害する何かを求めてここに来たことも、わかってしまいました」
「それを止めるべきか、それとも望み通り怪異として斬るべきか。悩んでしまって……結果、ただ怖い思いをさせるだけになってしまいました」
「せめてもの贖罪です。誰にも話しませんから、何故あのようなことをしたのか、何故ここに来たのか……何を悩んでいるのか。こっそりと、教えてくれませんか?貴方にはきっと、誰にも聞かれない吐き出し先が必要だと思うのです」
それを聞き、暫くの沈黙がその場を支配する。五分を超える間、女性が少女を撫でる音だけが部屋に響いていた。
長い沈黙を破り、少女の嗚咽が部屋に響き、そのまま声がぽつりぽつりと漏れ出した。
「あのね……あのね、お母さん、死んじゃったの」
「お母さん、魔法使いだったの。すっごく優しくて、いつも一緒に遊んでくれてた。遅くまでお仕事してて、疲れてるのに、一緒にお風呂入ってくれて」
「でも、どこ行ったのかわからないの。警察の人は、お母さん、死んじゃった、かも、頑張って探したけど、って」
両手でスカートを握りしめ、大粒の涙を零しながら、少女が泣きじゃくる。そんな様子を、女性は心配そうに、しかしそれを悟られることないよう、頭を撫でて見守っていた。
「だから!この家には、来ちゃダメって、お父さんが言ってたから!ここなら、お母さんのところに行けると思って、誰かが殺してくれると思って!」
「あの本を見たとき思ったの、きっとこの本なら、って!だから!」
そう叫んで顔を上げた少女の顔が、何かに塞がれる。目の前に広がる白い布。女性の着る
白衣が、少女を包み込んでいた。ぎゅう、と優しく両手で少女を抱き締め、優しく撫でながら、女性が語り掛ける。
「ありがとうございます、話してくれて。もう、大丈夫です」
「辛いですよね、お母様を亡くすことは……」
「そう思うまでに、お母様が大好きだったのですね。でも、きっと話してしまえば、心配をかけてしまうから」
「貴女はきっととても優しいから。抱え込んで、自分一人で思い悩んでしまって……」
「……今は、ここには私しかいません。さっき会ったばかりで、赤の他人で、いくら心配をかけても問題のない、私しか」
「だから、今は……好きなだけ、泣いちゃっていいんですよ」
ふわりと香る、甘い、花のような香。それのせいだろうか。少し心の枷が取れた気がして、純粋な感情の濁流が少女の頭を駆け巡る。少女にもう口に出せる言葉はなかった。ただただ、大きな声と大粒の涙を流し、女性に抱き寄せられるままになる。亡くなったはずの母の手を、自分の頭に重ねながら。
そうして、何十分も泣き腫らし、声も涙も枯れた頃。漸く、少女のぐす、ぐすという泣き声も落ち着いた。
「おねーさん、ありがとう……」
「もう、大丈夫ですか?」
「うん。なんか、いろいろと軽くなった気がする」
「ふふ、それなら何よりです」
そう言いながらも少しの間少女を抱き締め、少し名残惜しそうにしながら少女を抱く腕を緩める。女性の顔を見た少女の顔も、どこか少し名残惜しそうだった。
それに気付いたのだろう。二人で同時に笑いだす。
「ふふふっ!もう少し抱き着いていきますか?」
「あははっ!んーん!大丈夫!もう平気だよ!」
「そうでしたか。なら安心です、ふふ」
そう言いながら、女性は膝を立て、黒くつやつやと光る手を少女に向ける。その手を取って、少女も一緒に立ち上がる。水のようにつるつるで、油を塗ったように少し滑る、しかし濡れているわけではなく、握れば決して離れることはなく手に吸い付く、不思議な感触。そんな独特の触感を楽しむ少女を、愛おしそうに女性が見つめる。
「気になりますか?私の手」
そう聞いてはっと顔を上げ、バツが悪そうに笑う少女を、再び黒く光る手で撫でる。そんな女性の首元は、白衣に涙も鼻水も跡形なく、白い服と黒い肌が月光を反射して、美しく艶めいていた。
「あ、嫌いとかじゃなくてね!お姉さんの手、つるつるしてて面白い、安心する」
「ふふ!元気になったら、また会いに行きます。その時に存分に触ってください」
そう言って、女性は机に戻されていた本を袖に仕舞い、反対の手で少女の手を握る。透明に透けた袖の中で、本がずっしりと布を押し伸ばしていた。
「この本は私達で処分しておきます。先の様子を見ておいて、放置はできませんから」
「さ、帰りましょう。きっと貴女のご家族も、大切な貴女を探していますよ」
「うん!」
そう言って、家の近くまで少女を送った女性が、別れ際に少女とした会話。
「そういえば、お姉さん、お名前なぁに?私はミズエ!」
「あー……」
少し指を頬線に当ててから、女性が満面の笑みで答える。
「私は稚秉。谷菟彩稚秉です。」
「もし会いたくなったら、いっぱい願ってください。きっと、また会えますから。今度こそ、何もない平和なときに。」
そして少女が家に着き、泣きながら出迎えた父に彼女の名前を伝え、聞き覚えのある名前に驚いた父が娘を連れて稚秉に会いに来たのは、また別の話。